北海道のコロナ死と日本人の死生観

先日Twitterで #北海道死者465人 というタグがトレンドになっていました。正直愕然としました。3年たってもまだ同じことを繰り返しているなんて。一部の人が異常に煽って、それに多くの人が煽られていました。

確かに北海道のコロナ関連で公表された11月の死亡者数は11月28日までで465人にのぼったということのようです。29日の発表では+58人なので11月29日現在では523人なのでしょうか。

では、実際のデータを見てみましょう。(データはここより)

11月1日発表分から29日の発表分までのデータです。実際の亡くなった日が11月とは限りません。まずは札幌市の11月です。合計で207人の死亡が確認されています。90代以上が33%、80代が38%で合計71%です。70代まで含めれば91%です。もちろん患者それぞれの背景は全く公表されていませんのでわかりませんが、亡くなっているのはほとんどが高齢者です。

次に北海道(札幌市、旭川市、函館市、小樽市を除く)の11月のデータです。北海道では259人が亡くなり、非公表を除いて218人のデータを下に示します。

札幌市と全く同じ傾向です。90代以上が36%、80代が35%で全体の71%を占めます。70代まで含めると95%です。

上の図は11月29日現在の病床の状況です。確かに病床使用率は50%を超えています。しかし、重症病床は札幌で10床(20.4%)、それ以外の北海道でたった5床(7.5%)しか使われておりません。医療崩壊で重症化した人が入院できずに死んでしまっているという状況は考えられません。また、重症病床に入院されている人が一気に亡くなったとしても1日15人です。今日の発表のように58人も亡くなるはずがありません。

さらに見てみましょう。北海道の人工呼吸器装着数です。2020年1月から2022年11月28日までのデータです。(データはここ

何度か大きな山がありますが今年に入って10人以上になることはありません。今年だけのデータを見てみましょう。

今年はずっと、そして11月に入ってもずっと数人だけで、11月28日では1人だけになっています。

つまり、昨年のデルタまでの新型コロナウイルスで起きていた結構深刻な肺炎様の変化や血栓による重症化はほとんど起きていないのです。重症病床を占めている患者もコロナ陽性かもしれませんが、コロナの感染が重症化しているとは到底考えられません。逆に肺炎や血栓以外で現在のコロナはどんな問題を起こして患者を死に至らしめるのでしょうか?強毒化なんて起きているはずがありません。

コロナでは寿命という言葉を使うことがなぜか拒まれてしまいます。高齢者はコロナでも、インフルエンザでも、他の風邪でも、そして何もなくても死んでしまうものです。これまでもそうだったのに、「コロナ」という言葉がくっついただけで大騒ぎする人がいまだにいるのは信じられませんし、それを煽っている人も何を目的としているのでしょうかね?このようなハッシュタグをつけてそれが盛り上がるの楽しんでいるようにしか見えません。ちゃんとデータを見ているのでしょうか?国は何もしないとか、北海道知事は何もしないとか、言っていますが、本当な何もしないのが良いと思います。PCR検査も、マスク推奨も、そしてワクチン接種も何もしないことが一番いいと思います。鈴木北海道知事は緊急承認された塩野義製薬の飲み薬「ゾコーバ」を、国に対し、早期に必要数を確保できるよう、要請していましたけど。(ここ参照)ゾコーバは北海道に何ももたらしませんけどね。(「ゾコーバって必要?」参照)まあ、彼自身が決めたわけではないと思いますが。

このようなときに、「尊い命が失われる」とか「命の重さは同じ」だとかいう人がいますが、もちろん言葉としては正論かもしれませんが、誰も批判できないような耳に心地の良い言葉を使っているだけで、本当にそのように思うのであれば、日々日本でも世界でも「尊い命」が亡くなっている状況に対して何か行動を起こしているのでしょうか?そのセリフ自体が軽い感じがしてしまいます。中身がないっていうか。命の重さの話ってなんだかわかるようでわかりません。「命の重さは同じ」とかいう人ってもしかしたらマスコミに踊らされて、SDGsなんて喜んで言っている人なのかもしれません。SDGsの裏では、途上国の子供たちが学校も行けず、危険な労働をさせられています。(ここ参照)このような子どもたちの命も重さは一緒でしょうかね?自分たちが享受している幻想の幸せは、途上国などの犠牲のもとで成り立っています。ちょっと脱線してしまいました。脱線ついでにもう一つ。安倍元首相が暗殺されたときに、おそらく即死だったでしょう。それにも関わらず、大量の医療資源が投入されていました。0.01%も望みのないような場面でも、彼を助けるということで無駄な医療が行われました。それはほかの人ではなされない医療です。普通なら病院に着いて死亡確認をして終わりでしょう。彼の命はきっと一般人よりもかなり重かったのでしょう。いつ破綻してもおかしくない医療システムにどっぷりつかっている日本人には命の重さは同じで、誰でも平等に医療が提供されると思っていますが、国によっては立場やお金によって受けられる医療は異なります。

そして、次のデータを見てください。(データはここ

上の図はここ4年間の札幌市の死亡者数の推移です。昨年も超過死亡者数は多かったのですが、今年はそれを上回っています。ここ3か月(8月~10月)昨年よりも札幌だけで546人も超過死亡が多いのです。11月の死亡者数に騒いでいる人はこの超過死亡の異常な増加には何も反応していないでしょう。この超過死亡の増加は日本、世界で起きています。日本全国で1月から9月までの累計(令和4年1月~令和4年9月)では82,794人の超過死亡増加ですよ!おそらく1年間では10万人を超えるでしょう。それでいて出生数は30,933人も減少しています。日本滅びますよ。

森田洋之先生のnoteの図を見てみると、(図はここより)

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超過死亡の増加とワクチン接種の関連が非常に疑われます。世界で日本だけ現在でもどんどんワクチン接種が進んでいます。

北海道のワクチン接種率は次のようです。(データはここ

60歳以上の78.2%が4回目まで接種が終わり、70歳以上では3回目までは90%を超えています。もし死亡者数の増加がコロナが死因だとしても、それはワクチンが全く効果がないことを示すことになります。ワクチンが原因だとしたら、納得のいく接種率です。ワクチンでそれこそ「尊い命」が失われています。接種しなければ失われることがなかったであろう命です。

人間はいつになったら死ぬことを許されるのでしょうか?日本人の死生観は非常に歪んでいると思います。もちろん死生観は10人いれば10人とも違うかもしれず一概には言えないかもしれませんが、寿命はいつか来るのです。80歳、90歳、100歳。それでも寿命ではないのでしょうか?日本人の平均寿命は世界でトップです。しかし、非常に多くの病院で、ただただベッドの上で寝かされ、焦点も合わないような目でずっと一点を見つめていたり、自分では全く動けず、自分では食事もとれない高齢者が大勢います。熱が出たら抗生剤を投与され、食事や水分が摂れなければすぐに点滴され、それでもだめなら太い血管に太い点滴の管を入れられて無理やり栄養と水分を投与されたり、胃ろうという胃に穴をあけてそこから無理やりに栄養を投与することをされたりしています。食事は食べれないのに薬だけは何種類も投与されたり。これが生きているということでしょうか?このような高齢者たちは、そうなる前、本当にこのような姿を望んでしたでしょうか?もちろん望んでいたならそれでいいと思います。少なくとも私は望みません。しかし、日本ではどんなに高齢になっても最後の最後まで医療が行われないとならない状況になっていることがあります。

良い最期、その人にとって苦痛ができる限り少ない最期、ということを考えれば、点滴を何度も刺された腕の痣も、点滴でむくんだ体も、点滴で肺に水がたまったり痰が増加することも、胃ろうなどの人工の栄養も、ましてや人工呼吸なども苦痛でしょう。全く正反対の医療が平然と行われているのが日本です。尊い命だからこそ、最後は医療は最小限とすべきだと思います。言葉は悪く、語弊があるかもしれませんが、ある年齢以上の命は軽くなり、そして段々とさらに軽くなって消えていくのだと思います。それが老いであり、寿命です。その軽くなる命に重りをつけて必死につなぎ留めておくことがどれほど意味があるのでしょうか?その命の重りは大量の無駄な薬や点滴や胃ろうなどです。

ある記事によると(記事はここ)、たとえばアメリカでは、人生の最期のときまで本人の意思決定、自己決定権を尊重することが、尊厳のある死という考え方があります。またオーストラリアでは、終末期の医療・ケアについて

・無理に食事をさせてはいけない
・栄養状態改善のための積極的介入は、倫理的に問題がある
・脱水のまま死ぬことは悲惨であると思い点滴を行うが、緩和医療の専門家は経管栄養や点滴は有害と考える
・最も大切なことは入所者の満足感であり、最良の点滴をすることではない

という方針が明確に示されています。日本とは正反対です。そして、次のようにも書かれています。

終末期の高齢者が食べなくなるのは、死に向かうとき自然な体の変化です。死が近づくと体が食べ物を受け付けなくなるのです。・・・終末期に至った人は、健康な私たちが想像するような空腹やのどの渇きによる苦痛は感じなくなっています。体内の栄養や水分が少なくなるとβエンドルフィンやケトン体が多く分泌され、自然に鎮静鎮痛効果が働くともいわれています。むしろ食べられなくなった患者さんに無理に食事をとらせ、誤嚥ごえん性肺炎を繰り返すようなことは欧米の感覚でいえば「虐待」に相当します。

コロナだけでなく、何らかの風邪で体調が低下したとき、なんとしても生かさなければならないのでしょうか?もちろん一時的な点滴を否定するわけではありません。しかし、単にPCRが陽性だからと言って、「コロナだから」と言って死ぬのが許されないわけではありません。それは多くの高齢者の寿命です。

このような高齢者に対する虐待のような医療が平然と行われている背景には、はやりそれで儲けている病院があるからでしょう。ある記事によると(記事と下の図はここより)、高知県民は静岡県民の2倍入院しているそうです。沖縄では全国平均の2倍近くも胃ろうが行われています。下の図を見れば一目瞭然です。

【図表3】入院医療費(年齢調整後)と病床数の関係

横軸が人口10万人あたりの病床数、縦軸が1人あたりの入院医療費です。高知県は人口10万人あたり2522の病床を持っているのに対して、神奈川県は810床です。つまり高知県は神奈川県の3倍の病床を持っていることになります。つまり、病床数が多い都道府県ほど一人あたりの医療費も多いのです。高知県の人が病気になりやすいわけではありません。病院のベッドを埋めないと病院は儲かりません。ベッドを埋めるために病気、病人が作られているのです。そして、入院した高齢者に医療資源をどんどん投入して儲けることも可能でしょう。この日本の歪んだ医療システムが、患者家族にも波及し、死ぬまで何かしないとならない状況が作られます。そして、命が尽きるまでどんどん医療を行うことが良いことであり、それは患者本人にとっても最良のことなのだと思い込まされています。日本人はなかなか死ねないのです。

しかも今回のコロナでは、ベッドを埋めないでも、ベッドを確保するだけで多額のお金が病院に入ってきます。税金です。重症者でなくても手のかからない軽症者でも入院すれば儲かります。コロナがその患者にとって何ら問題を起こさなくてもPCR陽性であればコロナ患者として扱え、病院は儲かります。他の医療が滞っても、コロナの補助金で大きな黒字を生み出せます。コロナの煽りが続くのも納得です。コロナバブルができるだけ続いた方が良いと思っている人は大勢いるでしょう。途方もない税金がどこかに消えました。

新型コロナウイルスは普通の風邪なりましたが、これからも変異し、感染は何度も起こるでしょう。それはコロナ前の状況と何ら変わりありません。風邪をひくときは誰でもひきます。風邪気味だと言って働いている人も普通にいました。それでいいと思います。

数字に一喜一憂するのではなく、その数字の意味、その裏に隠されているもの、その情報を広げようとする人の意図、そして「死」についてもう一度考えてみるといいのではないでしょうか。

でも雪が積もる前にピークアウトかな?あまり意味ないけど陽性者数と実効再生産数を載せときます。(データはここより)

One thought on “北海道のコロナ死と日本人の死生観

  1. 明らかな高齢者虐待ではなくても、高齢者への医療や介護の制度そのものが、受ける側にとって
    虐待になっているとしたら、、、、
    過剰な医療や介護から自由になれるとしたら「孤独死」は否定的な言葉ではないのかもしれません。

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