2000年の後半だったでしょうか?私がまだ無知だったころ、しかし臨床医としてはある程度十分な経験を積んだころ、日本にもERAS(Enhanced Recovery After Surgery)(術後回復能力強化)がやってきました。17項目の構成要素からなり、それを行うことで手術後の回復をより良くするというものです。
その中で麻酔科医にとって、もっとも大きな項目が絶食の見直しと、術前の水分・炭水化物負荷でした。私はそのころまだ糖質制限をしておらず、糖質過剰摂取状態の無知な医師だったので、このERASに飛びつきました。絶食や絶飲は非常に苦痛であり、その時間を短くできるのは非常に望ましいと思ったからです。
そして術前に糖質を含んだ水分補給をすると、術後のタンパク質異化が減少し、筋肉の低下が減少すること、術後のインスリン抵抗性の増加が減少し、高血糖が少なくなること、それによる合併症の減少など良いことずくめだと信じてしまったのです。さらに、入院期間の短縮にまで結びつくという触れ込みです。
今でこそ経口補水液というのは多くの人が知っています。OS-1だけでなくいろいろな経口補水液が誰でも買えるようになりました。しかし、このERASが日本に導入されたときに強力に推奨されたのがOS-1で、スポーツドリンクとは違う、ただの水とも違う、非常に術前の水分補給にはもってこいのものだと思ってしまいました。ヨーロッパではpreOpという経口補水液がメジャーなんだと思います。
私も本当に積極的にこのERASを導入し、日本の多くの病院の中でもかなり早い段階でやり始めたと思います。勤務していた病院にもOS-1を入れてもらいました。
今になって思えば経口補水液を売りたい企業の戦略だったと思います。術前のたった500ml~1,000mlの経口補水液が手術後の合併症の発生、入院期間にまで大きな影響を及ぼすというのは今思えばかなり眉唾です。今は、多くの手術では水分は水で十分だと思います。
日本でもこのERASは急速に広がり、現在の医療では当たり前になっています。手術内容にもよりますが、全身麻酔での手術の2時間くらい前まで水分補給はOKだという病院がほとんどだと思います。ただ、以前のように経口補水液ではなく、水またはお茶による水分補給だけをOKとしている病院も多いのではないでしょうか?
2014年のコクランによると、実際のところ術前の糖質を含んだ水分補給にはほとんど効果がないことがわかりました。(図は原文より)
まずは上の図は入院期間の違いです。術前の糖質を含んだ水分補給のグループとプラセボまたは絶食のグループを比較しています。海外での研究のため日本の医療事情とは異なりますので、入院期間も恐らく日本よりも短いでしょう。
2日以上入院(当然ですが)する主要な腹部手術では、術前の糖質を含んだ水分補給グループでは1.66日入院が短縮しました。入院が2日未満の軽度の腹部手術では差がなく、整形外科手術や心臓外科手術でも差を認めませんでした。全体としてはわずか0.3日短縮しただけでした。
大きな主要な腹部手術でも適切にブラインド化されていた4つの研究だけを分析すると、術前の糖質を含んだ水分補給の効果は認めませんでした。
術後合併症発生率、誤嚥性肺炎、術後の疲労感、術後の幸福感、術後の悪心嘔吐にも違いは認められませんでした。
さて、インスリン抵抗性(HOMA-IR)はどうでしょうか?273人の参加者を含む7つの研究を分析したところ、術前の糖質を含んだ水分補給の効果は認めませんでした。
次にインスリン感受性についてです。41人の参加者を含む3つの研究を分析しました。41人ですから何とも言えないと思いますが、術前の糖質を含んだ水分補給はインスリン感受性を増加(0.76mL/kg/min)させました。影響力のある一つの研究を除外すると、その効果は認められなくなりました。
手術はストレスも多く、炎症も起こります。また絶食時間が長くなれば自然の人間の生理現象として筋肉のインスリン抵抗性は高くなるので、当然術前に糖質を摂取すれば絶食よりは多少インスリン感受性は増加するでしょう。
腸機能の回復はどうでしょうか?最初の「おなら」までの時間は86人の参加者を含む2つの研究によって報告されました。術前の糖質を含んだ水分補給で0.39日短縮しました。9時間くらいでしょうか?ただ、2つの研究のうち一つは効果が認められていませんでした。
手術後の最初の排便までの時間は、125人の参加者を含む2つの研究によって報告されました。これも術前の糖質を含んだ水分補給の効果はありませんでした。
他の研究を見ると、筋力、筋肉量に関して、術前の糖質を含んだ水分補給がある程度保護効果を示しているものがあります。(この論文参照)しかし、現在の入院したときの病院食、術後の点滴を考えると、手術後であるのに圧倒的にタンパク質、アミノ酸が少なすぎます。また、絶食、空腹時の重要なエネルギー源の脂質の量も点滴だとほぼゼロに近いでしょうし、食事でも少なすぎでしょう。そのことを改善すれば筋肉の影響は大きく減少すると思われます。術直前も糖質ではなくアミノ酸、タンパク質を補給した方が筋肉の保護効果が上がると思います。実際にタンパク質を含んだ飲料を術前に提供している病院もあるようです。(ただ糖質もたっぷりですが)
また、本来のERASは手術前の栄養も重要視しています。1週間から10日間はタンパク質を1日あたり1.2〜2.0g/kgの摂取が推奨されています。しかし、現状手術前の栄養まで注意を促す医師はそれほどいないでしょうね。
術後食事をすぐに再開できる手術であれば、筋肉の問題はほとんどないと思います。消化管の手術などで絶食がある程度の期間ある場合、エネルギーとして糖質が投与されてしまうので、インスリンが出て脂質が異化できなくて、足りない分がタンパク質の異化につながるのかもしれません。
大きな腹部手術を除いて、術後すぐに食事を再開できる手術の場合、術前の糖質を含んだ水分補給から得られる利益はほとんど無いと思われます。利益がないのであれば、どっちでも良いのかもしれません。しかし、有害性があるのであれば、すぐに見直しが必要であり、止めるべきでしょう。
では、実際には有害性はあるのでしょうか?小規模な研究ですが、見過ごすことはできない研究があります。それは次回以降に。
「Preoperative carbohydrate treatment for enhancing recovery after elective surgery」
「待機的手術後の回復を促進するための術前炭水化物療法」(原文はここ)
「今になって思えば経口補水液を売りたい企業の戦略だったと思います。」
だったのかもしれませんが、全て患者の利益を考えての対応、そして疑わしいとなれば即検証される姿勢は、素晴らしいと思いました。
それにつけても、どういう医療がベストなのかは、情報が溢れ過ぎていて難しいです。
鈴木 武彦さん、コメントありがとうございます。
医療もPDCAサイクルですね。